Jeff Beck Cause We’ve Ended As Lovers YUTO MIYAZAWA
すごくないですか””””
Jeff Beck Cause We’ve Ended As Lovers YUTO MIYAZAWA
すごくないですか””””
この「ボズ・スキャッグス&デュアン・オールマン」(1969年).
それまでスティーヴ・ミラー・バンドにいたボズ・スキャッグスの、
実質的初ソロ・アルバムです。
ボズといえば、なんといっても「シルク・ディグリーズ」(1976年)の大成功によって、
AORブームの立役者となり、おしゃれでダンディなおじさん、
といったイメージが日本ではすっかり定着しましたが、
この頃はまだ泥臭さを残したシンガーで、その証が、
このジャケットの、モミアゲ姿(笑)。尾崎紀世彦もびっくり。
スティーヴ・ミラー・バンドを辞め、
サンフランシスコからアラバマ州の田舎町に降り立ったボズが向かったのは、
「マッスル・ショールズ・スタジオ」。
当時はまだ、ストーンズなどがここでレコーディングする前で、
アレサ・フランクリンやクラレンス・カーターなどのサザン・ソウル系シンガー達が
好んで使用していた、知る人ぞ知るスタジオでした。
その当時、マッスル・ショールズで
ハウス・ギタリストをやっていたのがデュアンでした。
このアルバムでも、随所に彼のスライド・プレイが聴けます。
しかし、主役はあくまでもボズなので、
全体的にバッキングに徹した渋いプレイではあります。
しかし、ただ1曲、「ローン・ミー・ア・ダイム」、
この曲においては完全に主役が逆転。
12分を越える長尺のブルーズ・ナンバーで、デュアンのノン・スライド!による、
ストレートで凄まじいソロが延々と繰り広げられます。
バンドとともにジワジワと燃え上がっていき、
最後は大炎上!ロックの神様が降りてきたかのような圧巻の演奏です。
演奏だけでなく、内ジャケットでも目立っています。
ボズや、マッスル・ショールズのミュージシャン達のポートレイトが並ぶ中、
何故かデュアンの写真だけが全裸!なぜ全裸?
さすが、「ナチュラル・ファイヤー」、「スカイ・ドッグ」などさまざまな異名を取る男。
短くも豪快な生き様には男も惚れる。
こんなことを言っては失礼ですが、ローウェル・ジョージが亡くなったのには、
総合的ミュージシャンとして、
これからも色んな音楽を作り出せる可能性があったと思うので、
非常に勿体ない、という思いが強いんですが、
天然の天才ギタリスト・デュアンは完全燃焼、真っ白に燃え尽きた、
というイメージがすごくあるのです。
そもそもこのアルバムの原題は「BOZ SCAGGS」なのに、
邦題は何故か「ボズ・スキャッグス&デュアン・オールマン」(笑)。
ボズのファンだけでなく、
硬派のロック・ファンにもアピールしようとするレコード会社の魂胆が見えますが、
そうじゃなきゃこのアルバム買わなかっただろうから、よかったよかった。
ボズのヴォーカルは、もともと甘いテイストを持った人なので、
好き嫌いが分かれると思いますが、この時代はまだ甘さ控えめ、といったところか。
いつもカップスばかり、わいわい言ってるので今日は
FLOWER TRAVELLIN‘ BAND
いつもお世話になってるお客様にお借りしましたよ””
FLOWERのMAKE UP 初回限定版です
かれらのアルバムですと”サトリ” ”MADE IN JAPAN”あたりなども
皆さんよく聞いたと思います、僕も当時日比谷の野音に言っては、
ビニール袋片手に
ジョーさんの歌声 石間さんのギター 裕也さんの”怖さ”思い出します。
なぜか最近 お店のお客さんの中にも、
この当時の音楽聴いている20代の若い人が、
イッパイいますね”””驚きました、でも今聞いても新鮮ですよね!!
いつものように、酒でも飲みましょう””””(ビニール袋は、無)
2007 Y&N live the night of Sunday
9月2日(Sun) Y&N Music and talking
PM20:00 start 皆で酒でも飲みましょう”””””
ゲスト(ルイズルイス加部)無理だな!!!
みんなまってるよ〜〜〜
レッド・ツェッペリン DVD
お客様(ジョニーオーティスの貴重なアルバムをお借りした)に、
本日ツェッペリンの DVDをお借りいたしました、ツェッペリンの映像は
熱狂のライブ のみだと思っていましたが、
このDVDは25年以上もたって発売される
新しい公式ライブ映像だそうです。
見てみました、参ったの一言です、すごい”””””
5時間以上にもなる映像に含まれるのは、
1970年:アルバート・ホール
1973年:マディソン・スクウェアー・ガーデン
1975年:アールズ・コート
1979年:ネブワース・フェスティブウァル
英文ブックレットによると、
アールズ・コートでのアコースティック・セクションが
こんなに鮮明に再現できたのも、
最新のデジタル技術のおかげである。
アルバート・ホールは30年以上前に
16mmカメラ2台でされたものにも関わらず、
映像も音もまるで昨日のような鮮明さだ。
他の映像もすべて鮮明だが、ネブワーズでのクローズアップに至ってはリアルすぎるほどだ。
フイルム・ネガ132缶、2インチビデオ2セット、
海賊版ビデオ数本、初期のTV映像、
これらで構成された映像は貴重としか言いようがない
と記載されている、
まじかで当時のツェッペリンのライブが体感できる、
こんな事が今日できた。
(酒でも飲んでもう一度見よう)
TORU OKI BLUES BAND
東京日本橋人形町に三代続く江戸っ子として生まれる。
1967年、音楽活動を始め、1976年渡米。
唯一東洋人ブルースシンガーとして初めて、
米国労働省の認可を受け、アメリカ合衆国に永住する。
全米ツアーの成功とともに、アルバート・キング、ベン・E・キングなど多くの
ビッグアーティスト達とレコーディング及び共演する。
ブラックミュージックの伝統、
ミシシッピー・デルタ・ブルース・フェスティバルに
東洋人として初めてスペシャルゲストとして迎えられるなど
人種の壁を乗りこえて輝かしい足跡を残す。
‘79年凱旋公演にて来日以来、
毎年ジャパンツアーを成功させると共に、
日米のブラックミュージックの架け橋として多大な功績を残し、
ミスターイエローブルースと称賛されている。
尚、ゼネラルプロデューサーとしても多くのビックアーティストを育成す。
動物愛護家として日米の友好・親善に
貢献し、現在セラピードッグの育成のバイオニアとして世界へ
セラピードッグ(動物介在療法)の普及を二十年に渡り行い、
障害者施設、老人施設等にて活動を続ける。米国ニューヨーク
州老人ホームでの活動を始め、日本に於いても東京都中央区の
公立施設を始め、岡山市(民営)5施設などで活動し、
多くの成果を出し各地で実施している。
Al Kooper Session
ALKOOPER の2作めの スパーセションを紹介いたしましたが、
先日、お客様からすばらしいアルバムを、お借り致しました。
あの15歳のシュギー・オーティスのファーストアルバムです、
(正確には、ジョニーオーティスのアルバムですが、
貴重なアルバムです)
COLD SHOT THE JOHNNY OTIS SHOW 1968
シュギーが、まだ父ジョニーのバンドでプレーしていた時のアルバムで
あの天才的プレーが聞けます、ぜひ聞いて見てください。
THE BEST OF FLEETWOOD MAC
FLEETWOOD MAC のベスト版です、あまりベスト盤などは聞かないのですが、
たまたま中古レコード屋で、購入しました酒でも飲みながら聞くには最高です。
Al Kooper Session
ALKOOPER の2作めの スパーセション
15歳のシュギー・オーティスのギターぜひ聞いてみてください。
The Paul Butterfield Blues Band
1942年シカゴのハイドパークで弁護士の父と画家の母との間に生まれたバターフィールドは、少年期にシカゴ・シンフォニーのフルート奏者の元で専門的に学んだ後、大学生時代にはブルース・クラブを訪れるようになり、マディ・ウォーターズやリトル・ウォルターなどの演奏を間近に見て、彼らから直にブルースを学という音楽的にはかなり恵まれた環境に育った。
そして61年彼の学ぶシカゴの大学で偶然タルサ生え抜きのギタリスト、エルビン・ビショップと出逢い意気投合。2人は“The Buttercups”というバンドを結成し演奏活動を始めるのだった。
その後63年にシカゴのクラブにいたサム・レイ(ds)とジェローム・アーノルド(b)を加え“The Paul Butterfield Blues Band”を結成した。さらに65年にはマーク・ナフタリン(kb)が加わりエレクトラ・レコードと契約、シングル「Born In Chicago」でレコード・デビュー。また同年もう1人の名ギタリスト、マイク・ブルームフィールドも加入させファースト・アルバムをリリースしている。(この時ブルームフィールドの圧倒的なギタ・テクの前にビショップはサイド・ギターに降格するしかなかった)
彼らはデルタ・ブルースとカントリーを取り入れた新しいスタイルのサウンドを作り上げ、フォーク世代の若者とオールド・ブルースを好む大人達双方から評価されるようになっていった。初期のメンバーは、
Paul Butterfield ポール・バターフィールド/ヴォーカル、ハーモニカ
Mike Bloomfield マイク・ブルームフィールド/スライド・ギター
Elvin Bishop エルヴィン・ビショップ/リズム・ギター
Jerome Arnold ジェローム・アーノルド/ベース・ギター
Mark Naftalin マーク・ナフタリン/オルガン
Sam Lay サム・レイ/ヴォーカル、ドラムス
彼らの知名度を一気に高めたのは、やはり65年のボブディランとの共演であろう。そしてそれと共にブルームフィールドのギターも話題となり、アメリカン・ロックでは初のギター・ヒーローとして、イギリスの3大ロック・ギタリスト達にも負けないスターになっていった。しかし、66年にはレイ、67年にはブルームフィールドやアーノルドが相次いで脱退。バターフィールドとビショップは新たなバンド再編成を迫られるのだった。(ブルームフィールドはエレクトリック・フラッグというバンドで1枚アルバムをリリース後68年にはアル・クーパー等と名盤「フィルモアの奇蹟」をリリース、76年にはカーマイン・アピス(ds)らのバンド“KGB”へ参加した後ソロ活動へ81年にドラッグで他界している)
そこで思いついたのは、ホーン・セクションの導入によるジャズとロックのミックス・サウンドへの切り替えであった。
そのメンバーとは、
Paul Butterfield ポール・バターフィールド/ヴォーカル、ハーモニカ
Elvin Bishop エルヴィン・ビショップ/リズム・ギター
Mark Naftalin マーク・ナフタリン/キーボード
David Sanborn デヴィッド・サンボーン/アルト・サックス
Gene Dinwiddie ジーン・ディンウィッディ/テナー・サックス
Keith Johnson キース・ジョンソン/トランペット
Bugsy Mangh バグジー・マング/ベース・ギター、ヴォーカル
Phil Wilson フィル・ウィルソン/ドラムス
特筆すべきは若き日のデヴィット・サンボーンが加わっていたことで、かなり本格的なジャズ・ホーン・セクションを取り入れたことがわかる。バターフィールド・ブルース・バンドとしては、むしろこちらのラインナップの方が成功し、かなりの人気を得た。この後68年に今度は最も古くからパートナーであったビショップも脱退してしまう。彼は脱退後アレサ・フランクリンのバンドや、マーシャル・タッカー・バンドのアルバムへゲスト参加するなどセッションマン的な活動をして今も健在。
バターフィールド・バンドの方は69年に唯一のヒット曲「Love March」を放ち、ウッドストック・フェスティバルへ出演するなど60年代末まで人気を保っていたが、ビショップ脱退後バターフィールドのブルース・ハープを全面に出して失敗し人気が下降。71年にはバンドはついに解散してしまった。
その後、ポール・バターフィールドは“ベターデイズ”というバンドを結成し(Paul Butterfield, Geoff Muldaur, Ronnie Barron, Christopher Parker, Billy Rich, Amos Garrett, Howard Johnson)2枚のアルバムを出すが低迷し、音楽シーンからしばらく遠ざかっていた。そして86年ソロ・アルバムをリリースしカンバックするのだが、翌87年ドラッグと酒の多量摂取のため帰らぬ人となった。
だが、バターフィールドが残したアメリカン・ロックにとっての功績は後になって再評価され、90年代になってからも何枚ものアルバムがリリースされ続けている。ジョン・メイオールがブリティッシュ・ブルースの父だとするならば、バターフィールドこそアメリカン・ブルースロックの父だと言えるのではないだろうか・・・。
10代のころサイコーに、憧れたカップス
ファッション・音楽すべて私のバイブル””””
60’S、フェンス越しのアメリカと呼ばれた街<横浜・本牧>
本牧の丘に広がる”ベースキャンプ”、ベトナム帰休兵が踊り狂うクラブ”本牧ゴールデンカップ”、”米兵たちに群がるオンナたち”、そして”ドラッグ”…
在籍期間:(’66〜’72)
ザ・ゴールデン・カップスのリーダー。横浜の外国船専門のクリーニング店『シップス・ランドリー』の息子で九人兄弟の八番目に生まれる。ビートルズが来日してから間もない66年7月3日から約4ケ月程アメリカ放浪の旅に出かけ、本場のR&Bを体験。帰国後、カップスの前身である平尾時宗とグループ・アンド・アイを結成。以後、バンドのリーダーとして、個性が強いメンバーをまとめ続けた。66年の結成から72年の解散まで在籍した唯一のメンバーである。
在籍期間:(’66〜’72)
父親は中国広東省生まれの料理人で横浜中華街のレストラン『鴻昌』を経営。母親は神戸の在日華僑の家に生まれた。エディは彼の洗礼名「エドワード」から取られている。66年の夏頃、本場のR&Bを見聞するためにアメリカ放浪旅行に出たエディは、ゼムやヤードバーズなどのステージを見ながら旅を続けるなかサンフランシスコで偶然にもデイヴと出会う。これがきっかけとなり帰国後、デイヴから新グループ結成の為メンバー要請され、66年12月に平尾時宗とグループ・アンド・アイを結成。69年4月に一時的に脱退するが70年1月に復帰し以後、解散までリードギターをつとめた。
在籍期間:(’66〜’69)
父親はフランス系米国人で、母は日本人。中学2年の時にギターを始め、当時アメリカン・スクールの生徒でギタリストだったケネス伊東にギターを教わっていた。高校在学中に、同じ高校だったマモル・マヌーの誘いを受け平尾時宗とグループ・アンド・アイにベーシストとして参加する。“リード・ベース”と評された驚異的な早弾きベース・プレイで同時代のミュージシャンたちの度肝を抜き、その長身でスリムなルックスは、多くの女性ファンを魅了した。69年4月にエディ藩が脱退後は、リードギターとして活躍したが69年末に脱退した。
在籍期間:(’66〜’69)
叔母がハワイ出身の米軍人と結婚していた関係で、子供の頃から米軍キャンプに出入りしていた。やがてバンドのヴォーカリストとして幾つかのバンドを渡りながら活動を始める。デイヴ平尾が率いるアマチュアバンドに参加した事から、平尾時宗とグループ・アンド・アイにドラマー兼ヴォーカルとして参加。カップスの出世作となった3rdシングル「長い髪の少女」で、その伸びのあるヴォーカルと甘いルックスで一躍人気者となり、女性カップス・ファンの急増に大きく貢献。代表的GSアイドルのひとりとして脚光を浴びた。ドラマーとしても高い評価を得ていたが、本人の意思でドラムを手放し69年末にカップスを脱退する。
在籍期間:(’68〜’71)
4才からクラシック・ピアノを習い始める。地元のセミプロ・バンドに誘われ、ナイト・クラブやダンス・パーティーで演奏活動を始め、同時期にアメリカン・スクールのバンドとして米軍キャンプの仕事も始める。68年7月、ケネス伊東がビザの問題で帰国する事になり、代役としてエディ藩から誘いがありカップスに加入。シングル「愛する君に」と2ndアルバムのレコーディングが初仕事となった。若干16歳ながら、その卓越したテクニックと音楽的素養は各方面から注目された。ケネス伊東が再来日した後は、ともに活動を行っている。70年12月、カップスを脱退し音楽修行の為にバークレー音楽大学へ旅立ち、帰国後にゴダイゴを結成する。
在籍期間:(’66〜’70)
11才の時、米国軍人だった父の赴任に伴い来日。66年12月に平尾時宗とグループ・アンド・アイのメンバーとなり、初期カップスの音楽的要素に大きく貢献した。68年にビザの関係で一時ハワイに戻るためカップスを脱退するが、同年10月に復帰。帰国後はレコード・ジャケット等に姿を現さず、影でカップスの音楽面を支えていった。69年4月にエディ藩と共に脱退し、エディ藩グループを結成するが、翌年初頭には再びカップスに復帰する。その年の秋に兵役のため突然グループを脱退(メンバーは知らされていなかった)、物資輸送船の船員として約二年ばかり洋上生活を送った。日本に帰国後再びビザ問題が発生し、就労ビザを習得すべく奔走するが叶わず無念の思いで日本を離れハワイに永住し、97年に51歳の若さで他界した。